昭和40年12月22日 夜の御理解



 三代金光様は信心は、日に日にさらで御座いますと。日に日にさらだと、教えて居られます。日に日にさらな心、それが愈々明日の喜びの原動力になるのです。日に日にさら、中々この日に日にさらな心と云う事が、中々信心がでけとらなければなれんので御座いますね。さら所か本当に古ぼけて、もう苔が生える様になってしまう。信心にはね、苔が生える様になったらもうおしまい。ですからもう信心は何時も生き生きとした初なもの、信心初めに信心が段々分からして頂くようになり。
 ははぁ是が神様のおかげと云うものかと、本当に今迄信心の知らなかった時代の事が後悔され、信心を頂く様になった事が有難いと、ああ云う心がさらな心。そういうそのさらな心がこう三年、そして五年十年十五年と経っていく内にです、それが愈々日に日にさらな心を頂く事の為にお互いが精進しなければいけません、ね。日に日にさらと云う事は、今晩御神前で頂きますのにね、流しに流して行く事だと仰る。
 自分の心の中の過去の事を流していく。いわゆる昨日を忘れて、もう何年前にあれがどう言った云う様なこと覚えとるとじゃおかげ頂かれん。ね、いついつあれが私にこうやって恥をかかせた、もう一生忘れん。もうこんな人は絶対ほんなおかげは受けられんです。これはもう本当ですよ。私の体験から言うてもそうです。そんな執念深い人はおかげ受けられんです。私はもうこれだけは一生忘れられん。
 そりゃもう有難いことを忘れられんこつならよいけれども、何時までも恨みにすると云うようなことが忘れられんと云う人はね、おかげは受けられんです。これだけは忘れられんですね。 もう本当にこういう事を云う人は如何に日に日にさらな信心がでけていないのか、信心を頂いとる値打のない人です。それがね、流しに流して行けれる人、中にはこんな人がありますですね。
 人に懲りをつませようがどうしようがです、もうポーンポン言うだけは言うてですね、そして私や言や後はずうっとしとるとじゃけんで、もう私やケロッと忘れとる。こっちは忘れとう向こうは忘れとらん。こげなこっちゃいかんです。もう私や口は悪かばってんが、もう言うたきりがのそん時だけじゃん、まいっちょはえがなかも根がなか。言われとるそりゃ本人はそれでよかろけれども。言われたもんなやっぱ腹ん立っです。
 だから、そういう性格的にですね、ほんなこてばかんごと、昨日のこつは忘れてしもとる人がありますけども、それじゃないです。流しに流していくと、云うことは。本当に流しに流していくと、云う様な事なんかですね、本当にもう本当云うたら、お徳に触れなきゃ、でけるこっちゃないですね。私は今日それを、もうほんに目のあたりに、体験したことがあるです。
 今日、中野さんがもうお母さんと兄弟の方が見えたんですけども話を聞きゃ、この人の思いになって見たらですね、私の方が声上げて泣きだそうごたることだったんです。二階に行ったら親とその兄さんがこっちそのやってきたですもんね。もうとにかくかつきさん、もう私は初めてあげな形相ももうすごい真青になって腹かいて、話を聞いてみるじゃない、私はそれを推し計らして頂いたです。
 もうどうにもこうにもでけん。ほんなこて、大声をあげて殴り掛かりたいごたる。泣きたいごたる気持ちが、よう私に分かるです。ね、けれどもです、親子三人の者が、ここへ御結界の前へ出て来てです、もう本当に、それこそ一言二言、もうその香月?さんの顔にです、本当にもう、信心頂いてることの有難さを、しみじみ感じて居ることが、私に響いて来るんです。
 もうああた方、もうこのまま帰られんと、こう言われるんですね。お母さんと兄さんが、ね、けれどももう帰ったっちゃ大丈夫。もう安心がの、もう本当に、私やこれは神様と私しか分からん。香月さん、あんたが気持ちはもそれだけなんです。そういう例えば、本当にもう本当に、云うなら逆上するくらなです、腹立つ様なとがあっても、次の瞬間にはサアーと流された。
 それはどういう様な事か、ほんとに有難いとこに、ご神縁を頂いておったことじゃある、有難いことに、修行さして頂いとることじゃあると、云う事がそれを流すのですよ。神様にたった一言が、親先生のたった一言二言が、一辺にそれを押し流してしまう。そして次に思うておることは、信心ちゃ有難いことじゃある、私や有難いところに、御神縁を頂いたことじゃある。
 もう私や本当にどういう中にあってもやはり火の中にくべられても焼けることはない。水の中に押し流されてもです、流されることはないで済む様なおかげを頂けて居ると云うことをです、言葉で云えばそういうものを実感する時にです、どういう様なことがあっとろうが聞いておろうが過去のこと一切が流されて行く。そしてこれが段々高度になって来ればそれに対して御礼が言えれる様なものが生まれて来るのです。
 もうこの事はです、私はこげんそのう暴露趣味の方ですから、私は。言えるなら言いたいけれどね、言葉に言い現せれることじゃございませんでしたです。私の言うておることがです、中野さんにも通うたろがです、中野さんが思いが私にどこんされんごたる思いでですね、痛かごと私の方が弾けられるごたるものを響いて返ってくるのです。中野さんも私とあんたと、こうしときゃなぁにん要らんよと云う様なもの。
 云うならばね、そういう様なものがです、有難い。先程「  」さんが明日の謝恩祭に忙しい中をお花を生けにわざわざそちらの北九州の方からやきてるわけです。とにかく忙しい。明日は三時に起きなければならない。その仕事の番ぐりになっとるから帰らして貰うと云って、そげなこつ言わんな泊まってから電報かなんか打っときゃいいじゃんの、いやどうでも帰らんならん。
 そういう話させて頂ながらです、色々それこそ話はそれこそ何ヵ月、丁度御大祭からこっち合っとりませんですから、沢山あるですけど、その中からかい摘んでいろんな出来事のおかげ受けたことを私にお届けするんです。けれども信心頂いとることが有難い、そりゃもうほんにそれこそ今の話じゃなかばってん、逆上して腹ん立つごたあることも随分あるけれどもその事のおかげでです。
 こうしておかげを頂いておると云うお届けをして居りましたですがね。あれからどういう風に悪口を言われたり讒言をされたり、いわば様々な例えば上野さんを、いわばなんて言うですかね、いわば濡れぎぬを着せる様な事を言う人があるんですよ。やはり普通はそれでも本当に逆上して腹ん立つことなんだけれどもです、信心頂いとるおかげでそこを苦しいですけれども、その事を一生懸命祈らして頂いておればです。
 その人達が今日こちらへ来る時だん表までそれこそ送ってきてから、お兄?さん行ってらっしゃい、又早う帰って下さいち言うごたる、その気持ちの悪かぐらいにおかげを頂いておりますと、こう言う。どうでしょうか。例えば何日前、何か月前にどういう企みがその人達にあったとしても、その事に依って信心がでけた、その事に依って御礼が申し上げられて過去の事がサアッと流された。
 日に日にさらとは、そういう様なことだと私は思うです。私共は金光様の本当に信心は、日に日にさらでございますと、日に日にさらな信心になったら、どげなおかげが頂けるじゃろか。そんならさらとは、どういう様な事じゃろか。こう思うのですけども、サアーどういう事か分からないでしょうが。今晩私自身も神様から、そのお知らせ頂いて、分かって居るわけです。
 日に日にさらとは流しに流して行くことだということなんです。どういう難儀な問題があってもです、その難儀な問題に依ってです、私が研かれた。難儀な問題に依ってです、私が高められた。どげなはがいい思いをする様なことがあってもです、そのことのおかげで、この修行がでけたと云う時にです、そのことに御礼が申し上げれる、そこに流しに流し、いわばさらからまたさらへ進んで行くことがでける。
 さらな信心とはそういう事なんだ。
 例えば子供が言うことを聞かん、けどもその子供が言うことを聞かんおかげでです、私は修行がでけた。言うことを聞かん子供に御礼が言いたいごたる気がする。どうした奴じゃろかち言うてこれにもつことがひとつもいらん。その事に御礼が申し上げれる様なところまで信心が高められた時、様々な問題の中から。私共の心の中にいわば昨日を忘れることのでけれる信心と云うのが頂ける。そこにさらな心がある。
 そのさらな心が今日を楽しませてくれる。今日を有難いものにしてくれ、この有難い思いで又一日明けたら明日はどういう有難いことが待っとるだろうかと云う明日を楽しめれることのでけれるおかげが頂けれる。皆さん信心さして頂いてです、段々巧者になっただけけてです、さらなものがないとするならそれは大変なことです。信心に何の感激もない、教えを頂くことに何の生き生きした喜びも響いて来ない。
 どんなに有難い信心の中にあってもです、信心をさして頂きよってもです、お広前に御縁を頂いておりましても、それがもう当り前の様になったらもうおしまいです。もう云うならカビが生えよる時であり、苔の生えよる時です。果して今日一日のことがです、その日の例えばどういう腹の立つ問題があっても情けない問題があってもそれに本気で取り組ませて頂いてです。
 おかげで信心がでけますとか、おかげで修行がでけますとかおかげでと云う様なものが伴うた時です、その事のおかげいわば腹の立つ様な例えば問題でもです、もうその日限りをもって流して行く事がでける、だけでないその事に御礼が申し上げれる。そして明日が楽しまれるのです。どうでもひとつそこん所へおかげを頂きましてです、日に日にさらな信心、日に日にさらなおかげを頂いていく為にさらな信心が望ましい。
 十年終っても二十年終ってもやはり初な信心、そこに本当の助かりが頂けるのだと私はこう思うのですけれどね。どうぞそのさらな信心を目指さなければいけません。私共随分聞いてきたんですけども、ね、日に日にさらでございますと仰る一言がさらな信心とはどういう様なことだろうかと思うとったけれども、今の御理解頂いて初めて分からして頂いた。流して行くことだね。
 為にはです、流されるだけの豊かさがあれば尚有難いけれど、流されない様な問題はその問題は問題としてそれに取り組ませてもろうて、その問題のおかげでと云うものにしていかなければです、それは流されないでしょうが。やっぱり十年前の事まで思い出してから、それこそ腹が立つ、一生忘れん、ち云うごとなってくる。それではおかげは受けられん。そういう心を神様はお嫌いになるんですから、けどもあの事でです。
 例えば十年前でもいいです、十年前のあの事でこういう信心に私が開眼さして貰うた、分からして貰うた、進ませて貰うたと云うおかげを頂いて初めて一生忘れんと云ったことがです、ほんとにあのことのおかげでと一生その事に御礼が言えれる様なおかげにもなってくるわけなんです。信心はここんところ、信心はさらでございますと仰る。改めてさらな信心を分からして貰い、さして貰わなければいけないと思うですね。
   どうぞ。